白馬八方温泉の歴史
麓に建つ八方にまつわる建立碑が温泉を語るとき、必ず出てくる過去の悲劇が刻まれています。『白馬八方温泉』引湯の歴史は明治の初期にさかのぼり、白馬の観光開発の幕開けであると同時に苦難の歴史でもありました。
古くから白馬鑓ヶ岳中腹の2100m地点には温泉が大量に湧出しているのが知られていました。維新直後の明治初期、地元細野(現八方区)の有志によってこの岳湯を、竹筒を使って麓の二股まで引湯しようという大事業が計画され、明治9年(1876年)7月に上部から工事が始まりました。
当時、人夫や大工は泊まりがけで連日60人前後が従事し、竹は伊那地方から運ばれたものを槍で節をくり抜いて繋ぐという工法で進められました。初雪の降った旧暦9月23日(新暦の11月8日)、大雪のため事業中断となり下山の直前に起こった大雪崩が現場や宿舎を襲い、地元細野の有志6人を含む21人が犠牲となりました。その後事業は中断、この源泉には山小屋が建ち、大正11年以降は白馬岳登山の開拓者であり、白馬の観光開発の基礎を築いた松沢貞逸氏に引き継がれて、日本で最も高い場所にある露天風呂のひとつである『鑓温泉』として今も登山者を迎え入れています。そしてこの大事故は細野に子々孫々語り継がれ、温泉の引湯事業は地元の悲願として受け継がれてきました。
地名が細野から八方へと変わり、大事故から100年以上経った昭和57年(1982年)5月、戦後の登山ブームやスキー場の発展を経て今こそ長年の悲願を実現すべきと、数年にわたる調査と関係省庁への申請を経て温泉開発に着手し、ついに昭和58年(1983年)10月、鑓温泉直下の南股にて国内屈指の成分を持つアルカリ性単純泉の源泉の掘削に成功しました。当時は源泉に風呂桶を設置して皆で長年の夢の実現を喜び合ったものです。
『白馬八方温泉』と名づけられた温泉の引湯工事は昭和61年(1986年)6月に始まり、まず源泉から下流へ1800m引湯して二股に露天風呂を造り、同年7月には『小日向の湯』がオープン。さらに下流へ2000m引湯して同年12月には八方地区内に公衆温泉浴場がオープンしました。その後も引湯を続け、昭和63年(1988年)12月に八方地区の『第二郷の湯』と八方口地区の『みみずくの湯』がオープンし、先にオープンした公衆浴場も『第一郷の湯』として現在の外湯が形成されました。
積年の悲願は留まるところを知らず、ついには平成5年(1993年)に地区内の100件近いホテル・旅館・民宿等にも各戸引湯されて温泉郷が形成され、120年余の時を経て先人の悲願が達成されたものです。
先人達の鑓温泉引湯は叶いませんでしたが子々孫々の積年の悲願は、日本五大蛇紋岩地帯と言われる八方尾根と小日向山の麓、白馬鑓ヶ岳直下の蛇紋岩層を貫く温泉掘削成功によって、水素イオン濃度11pH以上という日本屈指のアルカリ度と良質の泉質を手にいれることができました。現在では地区内に足湯も設けられ、気軽に楽しむことができます。130年前に犠牲となった方々のご冥福を祈るとともに、悲願達成のために尽力された方々に感謝の意を表するものであります。
参考文献
- 白馬村史『白馬の歩み』
- 八方尾根開発株式会社創立30周年記念誌『あしあと』
- 八方尾根開発株式会社30周年記念碑碑文
- 財団法人八方振興会創立記念碑『八方に生きる』碑文